近現代史ゼミ(第3期・第31回、2015年1月31日)の報告  講師・内藤真治さん

「近代天皇制と今-その2」

1、御真影・奉安殿を知っていますか
  御真影は天皇・皇后の写真で、明治時代から敗戦まで、全国の学校におかれた。岩倉具視や大久保利通ら明治政府首脳は、天皇が偉いことを目に見えるように示すことが大切だと考え、天皇は全国を巡幸した。しかし、これには限度があるため、御真影の登場となる。明治天皇は写真嫌いだったので、イタリア人のキヨソネが描いた絵を写真にとって御真影として全国に配った。
≪参加者の発言≫
 ◎昭和5年の生まれ、15歳で敗戦。軍国少年だった。学校には奉安殿があって、その前を通るときに敬礼していた。そのことに疑問を持たなかった。御真影を直接見る機会はなかったが、偉い人という意識はあって、天皇のために命を捨てる覚悟はできていた。
 ◎太田の小学校に通っていた。校門を入って左に奉安殿があった。講堂に代わる集会場に御真影があって、敬いなさいと叩き込まれて、まじめにそのようにやっていた。
○「御真影に殉じた教師たち」(岩本努著)
 津波や火災、地震などの災害の時に、御真影を守ろうとして亡くなった教師たちがいる。長野県の上田で小学校長をしていた久米由太郎(作家・久米正雄の父)は1898(明治31)年、校舎が火災の際、御真影を消失した責任を取って割腹自殺している。地震で一番多かったのは関東大震災。その他、空襲の際は、御真影を背負って逃げる係の教師がいた。また、御真影を守るために宿直制度が導入された。
○奉安殿はいつから。
 御真影は当初は講堂などに掲げられていたが、災害に強い丈夫な建物として大正末から昭和の初めころには奉安殿ができた。中に御真影と教育勅語がおさめられていた。
○【天皇階下事件】
 1942年、富田常雄作「軍神杉本中佐」で「陛下」を誤って「階下」と誤植したため、出版社は出版停止となった。関係する業界ではこの誤植防止の対策として、「天皇陛下」4文字をひとつにまとめた特注の活字も製作された。
○【新聞から皇族の写真をすべて切り抜く】
 これは私の母親がやったこと。新聞紙で弁当箱を包むと、新聞紙にしみができる。そこに皇族の写真があったら大変なことになる。そのため予め切り抜いておいた。

2、「敗戦」の衝撃の中で -失墜した「権威」を嗤う
○天チャン・セミテン・君が代変奏曲
 セミテンとは半分天皇つまり皇太子のこと。君が代変奏曲は君が代の替え歌、「君が代」を笠置シズ子の「東京ブギウギ」のメロディーで歌ったもの。
○プラカード事件
 1946年の食糧メーデーで、参加者のプラカードに「国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね」とあったのが問題化。不敬罪で起訴されたが、不敬罪がなくなってしまったため、名誉棄損で有罪となった。
○天皇(皇族)の戦争責任を追及した共産党大会(1945・12・8 神田共立講堂) マーク・ゲイン著『ニッポン日記』(省略―資料参照)
○君主制を否定し共和制を主張した憲法草案
 ①日本共産党「日本人民共和国憲法草案」
 ②高野岩三郎「改正憲法私案要綱」
 高野岩三郎は現憲法に大きな影響を与えた憲法研究会の代表。憲法研究会の草案は実質的に象徴天皇制だが、高野個人のこの案は、天皇制を廃して大統領制を採用している(研究会では時期尚早として容れられなかった)。

3、「大衆天皇制」の成立(『中央公論』1959年4月号)
 丸山眞男門下の松下圭一が皇太子(現天皇)結婚の年に「大衆天皇制論」を発表(『中央公論』1959年4月号)。
 1958年、皇太子と正田美智子の婚約発表。以前の皇族のイメージと全く異なるストーリーでミッチーブームとなった。テニスコートの恋、恋愛による男女同権型のモダンな家庭。週刊誌は美智子妃を「粉屋の娘」と書いて、大衆の代表であるがごとき表現をしたが、実際は日清製粉社長の正田英三郎の令嬢であり、「テニスコートの恋」も小泉信三がおぜん立てしたもの。
○天皇の正当性の基礎が「皇祖皇宗」から「大衆同意」へと変化(松下論文)
○「戦後天皇を支えたのは核家族モデルとマス・メディア」(粉川哲夫)
  皇太子の結婚が芸能人の結婚式から今日のブライダル産業の隆盛まで影響を与えた。ちょうど石原裕次郎と北原三枝の結婚が1960年。かつては出産も結婚も家の中で行われたものだが、このころからブライダル産業の発展で結婚式は一種のショーのようになっていった。
 また、テレビ受像機の普及率も1959年には23․1%に倍増した。  

4、憲法擁護を明言している天皇・皇太子と皇位継承問題のこれから
 憲法第2条
  皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところによりこれを継承する。
 皇室典範第1条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
 男系男子が不足し、皇位継承に支障をきたす恐れがあることから2004年に首相の諮問機関として「皇室典範に関する有識者会議」が設置され、女性天皇を認める報告書を出している。当時、高崎経済大学教授だった八木秀次からもヒヤリングが行われ、八木教授は女性天皇に反対している。

(まとめ  設楽春樹)


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