近現代史ゼミ(第3期・第27回、2014年3月22日)の報告  講師・内藤真治さん

「尖閣・竹島(独島)・北方領土」

 領土問題は歴史問題だ。どちらの国の領土なのかという視点では解決できない。
両者にそれなりの根拠があり、同時に断定できない弱さがある。
  各国が領土を主張するようになったのは近代になってから。それ以前は、はっきりしない場所があった。日本国内に入会地というのがあって誰もが入れたのが、明治以降は非常に窮屈になった。それと同じように領土についても、近代になって曖昧さが許されなくなった。


【尖閣諸島問題】

1、尖閣諸島とは
 沖縄島の西、台湾の東北東にある無人の島嶼群、5島と3岩礁からなる。現在は 沖縄県石垣市に帰属。
2、日本政府の主張(明治~敗戦まで)
 1884年(明治17年)福岡の古賀辰四郎が探検。翌年に沖縄県令に開発許可申請(アホウドリの羽毛やアワビなどの採取が目的)。この時点までは、尖閣諸島は誰にも所有されていない『無主の地』だった。国際法上、「無主の地」に最初に手をつけた(先占)国に領有権が認められる。しかし、日本政府が閣議で尖閣諸島を沖縄県の所轄とし、標杭建設を許可したのは、開発許可申請から10年後の1895年。そして翌96年から30年間、古賀に無料で貸与を許可した。羽毛の採取事業で1909年の人口は248人。この実効支配に対してどの国からも抗議はなかった。
3、中国側の主張
 中国人が最も早く(15世紀)発見、命名、利用していた記録がある。琉球の正史『中山世鑑』(1650)でも尖閣は琉球の領土でないとしている。尖閣諸島は日清戦争の下関条約(1895)で台湾及び付属の諸島嶼とともに盗み取ったものだ。10年間、日本が標杭建設をしなかったのは中国領と認識していたからだ。
4、日本側の反論
 島の存在を知っていても領有権を意味しない。尖閣諸島は下関条約にある付属の諸島嶼に含まれない。10年間標杭建設しなかったのは「無主の地」確認のため。
5、第二次大戦後
 カイロ宣言、ポツダム宣言に基づき、台湾・澎湖島などを「中華民国」に返還。  1951年、北緯29度以南の南西諸島(尖閣諸島含む)はアメリカの施政下に。アメリカは尖閣諸島を射爆撃場として使用。中国は異議を唱えなかった。1971年、沖縄返還協定署名、翌年返還。このとき、尖閣諸島も日本に返還されたというのが日本の立場である。
6、いつから「領有権」が問題になり始めたのか
  1969年に東シナ海に石油・天然ガス埋蔵の可能性が指摘された後、70年代になって台湾、中国が領有を主張し始めた。1972年、日中共同声明調印の時、首脳会談で尖閣問題は「棚上げ」論。(中国は合意、日本は否定)
 2012年、石原都知事の購入計画表明、野田内閣の国有化で一挙に緊張状態に。
7、現状(省略)  
8、問題点
 ①内政の矛盾を領土問題(→ナショナリズム)に逸らす
   とりわけ中国は格差や腐敗への国民の不満を逸らすねらいがあるのではないか。
 ②アメリカの思惑
  「領土問題という係争の種を残し、米国が日本に足場を残し続ける構造を築」くという米の曖昧戦略(資料・朝日新聞参照)
 ③「嫌中」「嫌韓」の雑誌が売れる
   日本国内のフラストレーションを外に逸らす。戦後の歴史教育の曖昧さもある。


【竹島(独島)問題】
 領土問題が歴史問題だという感じがますます強い。竹島問題は韓国にとっては国家存亡に関わる大問題だ。ソウルには独島体験館が開設され、独島(竹島)を訪問する韓国人も年々増加している。それに対して、日本人はやや無関心だ。
1、竹島(独島)とは
 日本海の孤島、1905年の島根県編入時に竹島と命名。周辺海域に地下資源はないが漁業資源は豊富。韓国が諸施設を設置、武装警備隊が常駐。
2、近代以前の竹島に対する日韓両国の主張

①【韓】6世紀から朝鮮王朝の統治下にあった。新羅に服属していた「于山国」がそれ。その後も複数の記録あり。
 【日】「于山国」は竹島ではない。
②【日】1618(1625)江戸幕府が鳥取藩の大谷、川村両家に鬱陵島への渡海許可。両家は竹島を中継地に鬱陵島周辺でアワビ・アシカなど捕獲。1696年、幕府は鬱陵島を朝鮮領と認め、日本人の渡海を禁止。
 【韓】鳥取藩は幕府への答弁書(1695)で「竹島は藩領に属さない」としており、鬱陵島への渡海禁止令に竹島も含まれる。
3、明治以後
①1877年の太政官指令に「竹島は日本と関係ない」との記述
②1900年の大韓帝国勅令に竹島は郡守の管轄下にとの記述(ただし島名が曖昧で日韓に解釈の相違がある)
③1905年、無主地先占であるとして日本領に(日本政府の閣議決定)
【韓】1905年は日露戦争中、日本が韓国を徐々に支配し1910年に植民地化していく時代。日本に抗議できる状況ではなかった。(竹島は朝鮮植民地化の第一歩)
4、戦後
○ポツダム宣言にもサンフランシスコ講和条約にも竹島については明記されず。
○1952年、李承晩大統領が竹島を韓国領に取り込む(李承晩ライン)
○1953年、領有をめぐる日韓の応酬が始まる。
○1954年、韓国が竹島に武装要員を常駐、以後韓国が実効支配。
5、問題点 
①両国とも決定的証拠がない。
②「日帝36年」に対する「恨(ハン)」の象徴として韓国は絶対譲れない。
③韓国の国民の関心度は日本と比較にならないほど高い。
④「歴史認識」「慰安婦」問題もあり、韓国の譲歩は考えにくい。

(まとめ・設楽 春樹)


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