近現代史ゼミ(第3期・第26回、2014年1月25日)の報告  講師・内藤真治さん

「讒謗律」から「特定秘密保護法」へ

 昨年12月、特定秘密保護法が成立した。しんぶんには「議事録さえ作れぬ政治」「怒号飛び交う欠陥審議」と報道された(朝日12/7「担当記者はこう見た」)。議事録さえ作れぬ強行採決という点では、60年安保の委員会採決もそうだった。この時の首相は岸信介、そして、今回は孫の安倍晋三。
 ある与党幹部は、「国民は今は怒っているかも知れないが、年が明ければ忘れる」というようなことを言った。しかし、忘れてなるものかと思う。
 60年安保の後と今回は随分違う。60年安保のときは成立した後、潮がひくように静かになった。終わったとたん、熱が冷めてしまった。「政治の季節は終わった。さあ就職だ。」などと言われた。今回は、成立後もあきらめていない人がたくさんいる。秘密保護法の廃止・撤廃・凍結を求める意見書が各地の議会で可決されている。衆参両院で受理したものだけでも45件(1/8報道)。十代主催のデモ、「秘密はいやだ!U-20(アンダー・トゥウェンティ)デモ」を都内の大学生や高校生が実施したり、全国各地でシンポジウムや集会、デモが今も絶えない。新聞でも関係する報道が続いている。

1、権力は《批判》が嫌い―「安寧秩序を乱す」に《基準》がない

①讒謗律・新聞紙条例(1875=明治8年 太政官布告)
   讒(ざん)も謗(ぼう)も、そしる、あしざまに言うの意。律は刑罰の規定。
つまり「名誉毀損」を罰する規定。
 当時、征韓論に敗れて下野した板垣退助らが74年に民撰議院設立建白書を提出していた。民撰による議院の設立、〈有司専制〉の弊害を論じ、天賦人権論を主張、自由民権運動の口火となっていた。これに対して明治政府は、讒謗律第4条(官吏に対する侮辱)を使って、政府批判の言論を封殺しようとした。
 新聞紙条例も政論新聞(大新聞⇒明確な主張を持った新聞)による反政府言論取り締まりのために制定された。安寧秩序を乱す場合には発売禁止処分になるが、そこに明確な基準はなかった。 歴史認識問題や竹島(独島)の帰属については、65年1月「解決せざるをもって解決したとみなす。したがって条約では触れず」(丁・河野密約)でタナ上げ(『中央日報』)の報道があったが、日本政府は「密約」を否定し、基本条約交渉の議事録公開を今も拒否している(韓国側は公開)。

② 集会条例(1880=明治13年 太政官布告)
 集会・結社の自由を取り締まる法令。
 「国安ニ妨害アリト認ムル時」は集会も結社も不許可(4条)、集会に警官が臨席、中止・解散を命じ得る(5条)、軍人・教員・学生などの政治活動の禁止(7条)が定められていた。軍人といっても、下級の軍人だけで、上級の軍人は対象にならなかった。1890年、集会及政社法に引き継がれた。
 1878年(明治11年)東京の竹橋にあった兵営の兵士達が西南戦争の論功行賞などを不満として蜂起、二百数十人が捕まって、50人以上が死刑になった(竹橋事件)。陸軍卿・山県有朋は事前に計画を知っていたが、あえて事件を起こさせて民権運動の影響を受けていた兵士に対するみせしめとして多数を処刑した。

  憲法もなく、内閣制度もない明治初期にも行政府はあったのであり、この時期に上記のような条例を太政官布告として発布していた。その後、内閣制度ができて三権分立となっても圧倒的に行政権の優位が続き、その傾向は現在でも変わらない。


2、大日本帝国憲法(1889=明治22年)では
 28条の「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リニ於テ信教ノ自由」とか、29条の「法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由」などとあるように客観基準がなく、恣意的な判断ができるものだった。


3、社会問題(労働問題)の発生とともに―治安警察法(1900=明治33年)
  従来の集会及政社法を基礎に、新たな社会情勢に対処するため、労働運動や農民運動に対する取締規定を加えた。集会・結社の届け出、軍人・教員・女子などの政治結社加入禁止、集会に対する警察官の解散権、結社に対する内務大臣の禁止権(1901、片山潜らが結党した日本最初の社会主義政党である社会民主党は届出当日に禁止となった。)、さらに、労働者・小作人の団結と争議行為に対する禁圧などを規定。


4、治安維持法には前史があった
 1922年、高橋是清内閣が「過激社会運動取締法案」を議会に提案。  「無政府主義、共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱スル事項ヲ宣伝シ又ハ宣伝セントスル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮」(第一条)、「社会ノ根本組織」を「不法手段ニ依リテ変革スル事項」を宣伝した者は5年以下の懲役というもので、どのようにも解釈できるものだった。これには新聞、通信20社が連合し、「条文曖昧で、その解釈運用の如何に依ては言論報道の自由を脅威し、危険之より甚だしきはない。」などと決議し、反対した。さらに犬飼、尾崎ら代議士と新聞記者で連合会を結成し、「法案は、法文の理義曖昧模糊、量刑の範囲頗広範……時代錯誤の法案に極力反対する」とした。結局、この法案は衆議院で審議未了、廃案になった。


5、過激法案の廃案に学んで「治安維持法」へ(1925=大正14年)
「国体若ハ政体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」(第一条、提案当初の条文)
  政府は以前の「過激法案と違って対象を共産主義・社会主義の取締りに限定しており、思想・言論の自由を侵す恐れはない」としたので、犬飼らは反対せず、メディアの批判も弱くなり、治安維持法が成立した。しかし成立後は拡大解釈が進み、自由主義や民主主義的なものまで対象とされ、重罰化(死刑まで)、予防拘禁制度なども加わった。
 近年の国旗国歌法も成立当初は「強制はしない」というはずだったものが、現在では卒業式の教職員の口元チェックで処分という状態にまでなっている。一旦できた法律はそのときの当事者の主観的意図を超えて動き出すものだ。


6、戦時下、国民を縛った法律(省略)

7、「特定秘密保護法」制定をめぐって
①権力が歴史の教訓から学んだ点
 かつて過激法案が新聞社こぞっての反対が反対派議員と結びついたこと。今回は、「取材・報道の自由は守る」として、マスコミを分断。朝日・毎日・日経は反対、産経は賛成、読売・日テレは「強行採決」の語を使わず、朝日・毎日系のテレビ局以外はNHK(定時ニュース)も含めてその場面をオンエアせず。  特定秘密保護法施行に向け、秘密指定のあり方などを議論する「情報保全諮問会議」が始まったが、座長は賛同派メディアの読売新聞会長・渡辺恒雄(89)、反対派は7人のメンバーのうちたった1人、清水勉弁護士が入っているだけ。しかも議事録も公開しないという。
 ②歴史から学ばず、国民の成長を読み違えている点 法律拡大解釈の歴史、反対の高まりへの恐怖(石破発言「デモはテロ」)、主権者意識の前進(成立後もあきらめない)、《九条を守れ》の世論の高まり


(まとめ・設楽 春樹)


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