近現代史ゼミ(第3期・第21回、2013年1月26日)の報告

冤罪について考える

2、帝国憲法下における冤罪事件
(1)権力によるフレームアップ(でっちあげ)の例
① 大逆事件(1910年・明治43年)=明治天皇暗殺の謀議・爆裂弾製造?
  長野県の明科製材所の職工、宮下太吉らが爆裂弾を製造実験したとして大逆罪で検挙された。当初、「事件の範囲は極めて狭小なり。騒々しく取沙汰されるほどの事にあらず。(警保局長談)」というものだったが、以後、全国各地で検挙者が相次いだ。群馬県でも数人が検挙されている。
  大逆罪とは皇族に対して「危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」(刑法第73条)というもので、危害を加えようと思っただけで死刑になる。26名が大逆罪で起訴され、大審院のみの裁判で24名が死刑判決(1911・1・18)、半数が無期懲役に減刑されたが、24日には幸徳秋水らの死刑が執行された。
 この事件について、当時の文学者はショックを受けた。永井荷風や石川啄木も事件にふれているし、徳富蘆花は死刑囚の減刑を「天皇陛下に願い奉る」という文を書いたが、判決の一週間後に処刑、では到底間に合わなかった。
 「この事件は明らかに政府がこの機会に社会主義運動を根絶するに利用したデッチアゲと断定しうるのである。」と荒畑寒村は証言している。
②横浜事件(1942・昭和17~1945・昭和20年)=戦時中最大の言論弾圧事件
 総合雑誌『改造』に掲載された経済学者、細川嘉六の論文が共産主義的であるとして治安維持法違反容疑で検挙された。細川と関わりのあった編集者なども次々と逮捕され、特に、細川の郷里・富山県泊温泉の旅館で撮られた写真(1942年7月)が日本共産党再建準備会を開いた証拠とされた。その後も出版社や新聞社などで逮捕者が相次ぎ、拷問で4人が獄死している。敗戦直後に約30人が有罪判決を受けた。
この事件で逮捕された青地晨は「特高警察の連中にも『天皇の特高』という意識があった。…(横浜事件の被告を)拷問することは。天皇陛下への忠誠のあかしだ、というのが特高の論理である。…したがって拷問で責め殺しても、特高に良心の呵責は一片もない。一切の蛮行が、天皇の名によって浄められ、高められているからである。」と述べている。 戦後、元被告人・遺族らは再審を請求したが、関係書類が焼却されて資料がないことや治安維持法が失効しているとして免訴、棄却となっている。ただ、もと被告5人の遺族が刑事補償を求めた裁判でが勝訴している(10・2・4横浜地裁)。横浜地裁は刑事補償決定の理由要旨で、特高警察の拷問による虚偽の自白が推認される、いわゆる泊会議は認定できない、もし再審が行われていたら元被告人は無罪判決を受けたであろうとし、さらに「警察、検察及び裁判の各機関の故意・過失は総じて見ると重大であったと言わざるを得ない」と述べている。
(2)刑事事件における冤罪の多発
自白偏重、拷問による自白を検察・司法が追認する構造。それが治安維持法下での冤罪のパターンであり、戦後になってもその傾向が続いた。

3、敗戦後の治安体制
 敗戦後も特高警察、思想検察の活動は継続した(哲学者の三木清が治安維持法で投獄され、獄死したのは9月26日だった)。10・4人権指令で戦前の体制は崩壊するが、実際は骨抜きにされた。特高解体後、代わりに公安課(内務省)、警備課(各府県)などが設置され、大衆運動の取り締まりを行った。

4、占領下の冤罪事件
 ①帝銀事件(1948・1・26)
 帝銀椎名町支店で12名の行員が毒殺された。当初、警察は毒物の扱いになれた旧軍関係者に目をつけたが、8月に逮捕されたのは画家の平沢貞通だった。自白を重視する旧刑法のもと、平沢自身が所持金の出所をあかさなかったことなどもあり、死刑が確定した。平沢は再審を訴えながら1987年獄死し、その後は「救う会」による再審請求が続いている。
 真犯人は当初の捜査通り、旧軍関係者(特に731部隊)なのではないか。その捜査を止めることができたのはGHQだ。731部隊関係者は戦後、その研究成果をアメリカに提供することで戦犯にならず冤罪された。だから731部隊関係を捜査すると結局アメリカに迫っていくことになってしまう。
 ②松川事件(1949・8・17)
 東北本線金谷川・松川間で上り列車が脱線転覆、機関士ら3名が死亡。警察は地元の不良少年の捜査から赤間勝美という19歳の青年を傷害容疑で逮捕した。警察は赤間が、前夜、友人に列車の転覆を予言したことにし、また、偽りの被害調書(強姦)をつくり、その実演をさせると責め、祖母の供述を偽造したアリバイを否定したりして自白を強要、ついに赤間は警察の筋書き通りの自白をする。この自白から次々と20人(国鉄労組側10人、東芝労組側10人)が逮捕された。そして事件はこの20人の共同謀議によるものとされた。
一審判決(福島地裁)は全員有罪(死刑5名含む)、二審(仙台高裁)では数名を除き原判決が維持された。
実行犯とされた佐藤一は15日に福島での謀議に参加したことになっていたが、実際には東芝松川工場での団体交渉に参加しており、そのことを松川工場総務課長がメモ(諏訪メモ)に残していた。この諏訪メモは佐藤のアリバイを証明するものであったが、上告審で提出が命ぜられるまで検察によって隠されてきた。
 上告審(最高裁)では原判決破棄、差し戻し。差し戻し審(仙台高裁)で全員無罪。検察が再抗告するも上告棄却で無罪が確定した(事件から14年後) 作家・広津和郎による裁判批判と全国的な「松川守る会」の運動の成果。しかし、帝銀事件同様、松川も「真犯人はどこ?」の振り出しに戻っただけ。

5、報道冤罪-被疑者逮捕の時点でマスコミは「犯人」視する-「推定有罪」

6、冤罪を防ぐには
○代用監獄の禁止 被疑者を拘置所の代わりに警察署内の留置場に長期間置いて取り調べを行うことがあり、無理な取り調べや自白の強要につながる。
○取り調べ過程の全面可視化
○判事・検察間の人事交流禁止
裁判所は検察に親近感を持ち(判検一体)、刑事事件の有罪率99.9%。

(まとめ・設楽 春樹)


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