近現代史ゼミ(第3期・第17回、2012年1月28日)の報告

沖縄近現代史 ②

 今回は特別講師、菊池実さん(県埋蔵文化財調査事業団)のお話です。写真や図表などを使って説明していただきました。

①1945(昭和20年月16日・館林上空の空戦を追って
1945年月16日、米軍艦上機により中島飛行機太田製作所と小泉製作所が空襲された。このとき、邀撃に飛び立った日本軍の飛燕2機が撃墜された。
○二つの慰霊碑(写真)
館林市の常楽寺⇒新垣安雄少尉の慰霊碑
足利市    ⇒鈴木正一伍長の慰霊碑
○新垣少尉の「備忘日記」から
○コロンビアレコード慰問団と(写真)
○米軍機(海上から日本本土へ)(写真)
ライフ誌カメラマン、ユージン・スミスによる
○地上の惨劇、西門付近の悲劇
焼夷弾による空襲を予想していた人々が避難せず待機したため死傷者多数
○撃墜された日米両軍機
米軍機の生存米兵への虐待もあったのではないか
○新垣少尉の遺骨と機体の発掘
墜落した機体は土中深く突っ込んだため、当時、機体や遺体の完全収容はできず、34年後の1979年に発掘が行われた。遺品は新垣少尉の出身地である沖縄の南風原(はえばる)文化センターに収蔵されている。
○兄、新垣安雄を語る
沖縄、南風原町に弟が健在

②沖永良部島へ―不時着した特攻隊員を追って
陸軍前橋飛行場で特攻訓練をつんだ36名の隊員の消息をたずねて
○飛び立った特攻隊(隊員の写真)
○小林少尉最後の日誌
○岡部三郎伍長の日誌
○遺骨を抱いて出撃する隊員(写真)
○飛行ルート
○下手豊司曹長…最後の姿(写真)
上記の36名のうち、戦没者は32名、生還者4名
○生存している元隊員(原田覚伍長)の証言
生還者のうち唯一の生存者。柳川市、今年90歳、孫とメールで連絡。

③戦争遺跡の取り扱いの過去と現在
○沖縄の戦争遺跡
第32軍司令部壕(首里城地下)
○那覇市真嘉比の遺骨収集 →国際通りのすぐ近く
たこつぼに入った遺骨(頭蓋骨に穴)、下半身だけの骨
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沖縄戦補遺(内藤先生)

①いわゆる「大本営発表」の実態
大本営とは、明治以後の日本が戦争するときに、特別に設けた戦争指導の機関。1941(昭和16)年12月8日、最初の大本営発表があった。最初の頃はあまり嘘はなかった(それでも、九軍神などは問題だが)。終わりの頃になるとひどいことになっていく。たとえばミッドウェー海戦の大本営発表(資料参照)などは大うそ。日本軍の被害は控えめに、敵の損害はオーバーに発表する。発表をずっとそのまま足していくと米軍の艦船はすべて無くなってしまう勘定になる。
さて、福島第一原発事故について、事故直後の3月12日の琉球新報には「福島原発、炉心溶融」とある。これは琉球新報の独自の取材によるものではなく、共同通信からの記事。それなのに他の新聞にそういう報道がなかった(地元にいくつもの原発を抱える福井新聞がやや近い報道をしたくらい)のは、各社が一斉に自己規制していたからだろう。

②「特攻隊員 岡部三郎伍長」のこと
大戦末期の1945年、陸軍前橋飛行場(堤ヶ岡飛行場)で特攻隊の訓練が行われていた。そこに勤労奉仕で出かけた前橋高等女学校(現前橋女子高校)の生徒は特攻隊員に会いたいとの願いがかなえられず、代わりに人形を作ってあげることにした。当時4年生の細野光枝さんは人形の背に血書の手紙をしのばせた。「徒々記」と題した返事が細野さんに届く。名前は「陸軍特別攻撃隊員 岡部生」としか書かれていなかった。
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後年、前橋女子高校教諭だった内藤先生はそのことを知り、厚生省に照会して、特攻隊員の岡部は香川県出身の岡部三郎であり、昭和20年4月6日に沖縄特攻作戦で戦死(当時24歳)していることを確認した。さらに三郎の甥である岡部斎さんとも連絡をとり、次のようなこともわかった。宮崎県の新田原基地を飛び立った岡部三郎は沖縄沖で米輸送艦カスウェル号に突入、遺体は米軍によって水葬されたが、岡部が締めていた鉢巻きを同乗の米軍医が持ち帰った。後に、その鉢巻きは日本人留学生に託されて日本に戻り、今は知覧の特攻会館にある。
(まとめ・設楽 春樹)


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